大学に奉職していることもあり、自分で収集している情報のデータベース(言い方はカッコイイですが要は忘備録です)を作っておきたいなぁと始めた本ブログですが、インプットは習慣化してしまえば無意識化できるものですが、アプトプットってなかなか習慣化しないもので。

正直、日々、苦闘しています。自分のアンテナに引っかかる情報がそうそうあるわけでもなく、かといって一度アウトプットを止めてしまうと、「まぁ、いいか」が連鎖していきそうで。ということでなるべく周1は読書感想文、週4は情報のデータベースを作成するスタイルに落ち着いていきました。

ですが、人間、半世紀も生きてくるといろいろと思うところがありまして。

ということで、今回はこのお盆にふと思ったことをまとめておこうかなと。

毎年、この時期は私の住んでいる地方では迎え火・送り火という風習がありまして、木を燃やしてご先祖さまのお迎えとお見送りをしております。昔住んでいた京都では地蔵盆という風習を拝見した時には驚いたものです。

「死」は生きとし生ける者には等しく訪れるもので、要は早いか遅いかの違い。言ってしまえばそれまでなのですが、生きる意義とか使命とかを持っているかどうかで生きる価値が違ってくるという表現をし、追い立てられるように自己啓発をされている方もいることでしょう。私もよく考えていました。

おそらく大学受験の際に読んだ文章の中に、人生は死の周りをぐるぐる回っているようなもので、若いうちは中心からは遠いから意識しないが、年老いてくると中心に近くなるから意識するものだという一文がありました。(おそらくです。正確ではありません。)

その時には「ふーん、そんなものか」と思っていましたが、妙に引っかかるところがあり、何十年も経った今でも覚えている一節となっています。試験勉強ですので、真面目に取り組んでいたのでしょうし、膨大な量を読んでいたのだとは思いますが、それを振り返っても人生、何が自分にとって有益化は振り替えてみないと分からないことがあるということでもあります。

もとい。

妙に引っ掛かりを覚えたその一節ですが、確かに歳を経るに従って、「死」を意識するようになってきている自分を自覚しています。

私、根が単純なもので、どうせこの世にいなくなるのだったら、人に優しく接しようとか、人の役に立つこと、自分がされて嬉しいことをしようとか思うようになってきました。

今までのやり方が間違っているとかどうとかいうことではなく、思うに自分主体の視点だけでなく、自他や利他という視点を持つようになってきたのでしょう。それがどういった結果を生み出すかは分かりませんが、とりあえずはこの路線でいこうかなと今は思っています。

皆さんも何かの折に、自分がどの立ち位置にいて、どのような道へ進んでいこうとしているのか、を熟慮するのも一興かと。特にご先祖さまが一緒だと思うと、何かのお知恵を拝借できるようで心強いものです。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

今後ともよろしくお願いいたします。

カテゴリー: Life

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